◆カテキョウブログ的感想とおすすめポイント◆
東日本大震災で被災した若者が「被災者であること」を受け止め、受け入れるまでの物語。中学受験で取り上げられる小説では珍しい本物の文学。最近の小説では一番のおすすめ。
福島に住む「わたし」は東日本大震災を体験するが、家族や家に大きな被害はなかった。そして「傷付くことができなかった」。直後、美術部の活動の一環として絵をコンクールに出品するが、絵を評価する人間もマスコミも、「鳥とか、空とか、花とか、心が安らぐような、夢を抱けるような、希望や絆があって前向きな」絵を求めていた。私は絵を描くことをやめた。
「わたし」の友人のトーミは、大きな波を見て、「あ〜あ」と思った。トーミも家族や家に大きな被害はなかった。「何も失わなかった自分はせめて傷ついた人を救う職につきたい」と医師を目指した。そうした「ストーリー」を医学部の教授に「本当に美しい努力だ」と言われた瞬間に、教授に「死ね」と言って、研究室を飛び出した。トーミは「何もなりたいものがなかった自分に、震災という大きな物語が覆いかぶさってきて、自分はそこに上手にはまっただけではないか」「わたしの十代をかえせ」と感じた。トーミは医学部を中退した。
家族を失った中鵜、松田も震災に翻弄された10代を送った。現実的な苦労やトラウマだけでなく、「可哀想そうな被災者」としてのイメージとどう折り合いをつけるかに苦悩し、もがき、答えを模索する。
震災がテーマなので、陰鬱でとっつきにくい物語だという先入観があるかもしれないが、文体はサラッとしていて読みやすい。ドキュメンタリーではなく、小説であるがゆえに、「本当の声」が感じられる気がする。一切無駄がない文章に、文学的要素の全てが含まれている。苦悩だけでなく、震災に囚われた若者たちが、10数年経過して出口を見つける『氷柱が解けるシーン』までをしっかり描いている。とても誠実で力のこもった小説。
*もう一題は『朝日新聞掲載の宇佐見りんの文章』より
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夏休みの図書委員で偶然集まった中学生4人がバンドを結成する。バンドを結成することで新しい世界への窓が開ける。居場所が生まれる。その喜びを全身で受け止める4人。デリケートで臆病な中学生が、理不尽さにどう向かい合うのか。
美的であったり深い思想が表現されているという小説ではないが、眞島(ましま)めいりさんは2019年デビューの若い作家とのことで、学校や友人関係の描写がリアル。繊細で丁寧で真摯な文章が素晴らしい。現代的な表現は現代の子供も共感できる。読み切れば爽やかな気持ちになる。真っ直ぐすぎるせいか、知的な深みや人生経験の実感に欠けるように感じる部分もある。
近年、女性作家の作品が取り上げられやすい傾向があるが、この小説の主人公(語り手)は男子であり、男子中学の入試問題に出題しやすい。人気作でもあるので、今後もどこかの中学で出題される可能性は高い。
気に入った表現:『ここに生きてる俺の気持ちを、才能ある誰かが代わりに表現してくれることに、悔しさを感じ始めてる』→音楽(エンターテインメント)を消費する側から、ほんの少しでも表現する側に足を踏み入れたことで、ただだるかった日常に全く違った視点が生まれてくる感覚がうまく表現されている部分。
*もう一題の長嶋有『小説の、書き方』はこちらからダウンロード可能
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コロナが蔓延した時期に書かれた随筆集。コロナの自粛期間は誰もが自分と社会の脆弱さを意識する時期だった。筆者は「弱さの中にこそ強さがある」あるいは「弱さを分かち合うところにこそ強さが生まれること」を再確認する。
この本では現代を生きるリーダー、ローマ教皇フランシスコ、アメリカのクオモ知事、ドイツのメルケル首相(全て2020年当時)の言葉が引用され、弱さに共感することで人々と「つながる」ことの重要性が解説されている。また過去の書物(聖書や仏典、シモーヌ・ヴェイユ、セネカ、内村鑑三、鴨長明など)から、このような危機の時代だからこそ見つめ直すべき価値観が掘り出され、丁寧に解説されている。
引用されている古今東西の発言・思想に触れるきっかけとしてとても良い本。大学教授でもある筆者の文章は、あくまで丁寧で小学生でも理解しやすいはず。コロナが最も猛威を振るっていた時期に書かれたものであるので、時間が経つにつれ、1つ1つの内容には共感できない部分も出てくるかもしれないが、筆者のコトバに対する鋭敏さや弱者に寄り添う姿勢、文系の学者としての誠実さに触れるだけでも読む価値がある。小学5,6年生にとってはちょっとした哲学入門にもなりうる。
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主人公は高校一年生の男子・清澄。母のさつ子と父の全は離婚している。母は真面目が取り柄の公務員、父の全は生活力や親としての自覚に欠けた服飾デザイナー。清澄は裁縫が趣味であることを「女みたい」と言われることに違和感を抱えている。姉の水青は「女のこ女のこした服」を着ることに抵抗がある。母のさつ子は苦手な育児を押し付けられ、母親がそれをして当然だと思われることに不満がある。祖母の文枝は亡き夫に「若うもない女が水着を着るのはみっともないからやめときなさい」と言われたことを胸に抱えたまま、スイミングに対する興味を押し殺して生きてきた。父の友人である黒田は、未婚であることに対するひけ目を感じている。それぞれが「ふつうであること」へのプレッシャーを感じ、抑圧されて生きている。各章が清澄・姉・母・祖母・黒田のそれぞれの視点で語られる。
結婚することになった水青は女の子らしさの極致であるヒラヒラしたウェディングドレスを着ることを拒否する。清澄は水青のために、シンプルなウェディングドレスを作ることを決心する。
ジェンダーが主要なテーマであるならば、一番のキーパーソンである父・全の視点が必須であったように思う。あえて全の視点を外したと言えばそれまでだが、おそらく作者は全の視点において語りえることを持っていなかったのだろう。母と祖母の視点ではドロドロとしたリアルな女性の本音が語られる一方で、清澄や黒田はもちろん全までが、女子高生が好む漫画の登場人物のような薄っぺらく平面的な描かれ方になっている。どの人物も小学生男子が共感することは難しく、男子中学の入試問題としては難問にならざるをえない。
男性視点パートはキャラクターにリアリティがない分、ストーリーがスムーズに進行し、服飾への情熱が印象的に語られ、その他の美しい表現も見られる。カバー絵のイメージは男性視点パートのもの。女性視点パートは女性としての生き苦しさにフォーカスされて、広さや軽やかさがない。構想としては面白く力作でもあるが、作者が母視点に貼り付いてしまい、文学として昇華されなかった作品。そのいびつさそのものが、むしろ「男女差」をはっきり感じさせるものとなってしまっている。
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「本当の日本人とは何か」「本来の日本人の心とはどのようなものか」ということを考える人がいる。そしてそのような人は武士と武士道を引き合いに出すことが多い。ただ彼らの多くは武士と武士道について何も分かっておらず、現代的な考え方に染まったまま、自らの主張にとって都合の良い解釈で武士と武士道を語っている。この本の筆者はそこを正したいという強い思いがあるようだ。筆者が語る武士像と武士道が「本物」かどうかは大いに疑問だが、この本を読むことは、少なくとも多くの日本人(と外国人)が「サムライ」としてイメージするものを見直す良いきっかけとなる。そして現代の欧米的合理主義・功利主義とは全く違った価値観で生きた人々がかつて日本にいたこと、そしてその思想が(たとえ無意識的であっても)私たち現代日本人にも受け継がれていることを知ることは、我々が無批判で受け入れている現代的な価値観を見直すきっかけにもなる。
基本的には固く、小学生には実感することが難しい文章だが、魅力的なエピソードもいくつか登場する。たとえば武田信玄が胸ぐらを掴んで殴り合った配下の武士を2人とも死罪にという話。その理由は「刀を抜かなかったから」。命の保障の内側で喧嘩するなど武士失格であり、武士たるもの問題に直面した時にはいつでも人を斬る覚悟を持っているべきだということらしい。
武士と武士道についての知識を土台として、筆者の興味深い主張がいくつも展開される。たとえば『現代社会の「誰でも、何にでもなれる」の裏側には、人に交換可能な役割しか与えない資本主義システムが存在しており、そこに「道(哲学)」はない』という話。また『「文武両道」の勉強とスポーツではない。お金を稼ぐ実学はむしろ「武」であり、「文」とは相手の心情を察する能力やもののあわれを感じる心である』という話。福沢諭吉の「損得哲学」や司馬遼太郎の「功利主義」に対する批判も面白い。
武士は本来どこまでも現実的であり、戦争に勝つための「血みどろの現場主義」が武士道の大前提であるとしながらも、武士の思想を「利のための利」の対極に位置付ける筆者が、様々な矛盾をものともせず、「日本人が本当に望んでいる生き方」を語る筆致は、論理を超越して不思議なほど説得力がある。
*もう一題は、NHKの番組『日本語なるほど塾』の平田オリザ『「対話」してみませんか』より